アイスキャンディ・マイラブ

札幌ドーム前に住んでるパンダの雑記

渋谷すばるのこと

もうすぐ渋谷すばるが最後に出演した関ジャムから二か月が経つ。ようやく、私も東京二日目でGR8ESTに入ることとなる。そこで目にするのは、6人の関ジャニ∞だ。入る前に、す担として気持ちをまとめておきたくて、書いておく。

 

はじめて関ジャニ∞を見たのは忘れもしない2013年12月15日、私の生まれてはじめての「ジャニコン」だった。映画のエイトレンジャーは見に行く、くらいの距離感であった私を誘ってくれたのはエイトにはまったばかりの友人のKで、札幌のチケットが取れたと言われてホイホイと同行した。前乗りしようとした飛行機は大雪で数時間遅れ、20時には札幌で夕飯を食べているはずだった私たちは、23時にコンビニで買ったホッケの魚肉ソーセージをかかえようやくホテルについた。翌朝、マイナス3度の中を1時間並んでグッズを買った。Kはなんとビギナーズラックでアリーナ席を当てていたので、アリーナ席なら礼儀としてうちわくらい持たねばと、その日私が買ったのは全員のクリアファイル、ペンライト、そして渋谷すばるのうちわだった。

入ってみると、Kが当てたアリーナ席というのはバクステ間近、そしてムビステの真下だった。メンステまでは非常に遠いが、しかしその日、ムビステが動き出したときに鳥肌が立った感覚は忘れられない。こっちにくる、しかも全然歩いてないのにこっちにくる。やがて我々の真上をエイトが通過していった。わたしは口を開けたまま、ムビステと一緒に身体をのけぞらせた。そのとき真下をのぞきこんだ渋谷は、うちわをかかえ、驚愕した表情の私(達周辺の観客)を眺めながら挑発的にべろりと舌で唇を舐めた。「アーーーーーーーーーー!」という言葉にならない叫びが私の唇からこぼれ、隣のKにしがみついた。Kも悲鳴を上げていた。バクステ近くだったのがよかったのだろう、ムビステの高度は低く、至近距離から見上げて「アイドルが履くズボンも股間に縫い目がある…」と思った。その衝撃はすさまじいものだった。その一回のコンサートで渋谷すばるに落ちた。恵まれた席だったので規制退場で退出したのは最後の最後だったが、まわりの席の人たちもみんな「仕方ないわよね~いい思いしたもん」とばかりににこにこしていた。福住の駅に入るのに雪の中一時間以上並んだが、少しも苦痛に思わなかった。あの日のあの席で見た景色を、いまも鮮明に覚えている。Kと鳥貴族で飲んでは、斜め上を指さして「あそこに…」と思い出を語り合った。

 

今年の4月、私は出張で二週間海外に輸出されていた。出発直前、すっぱ抜きの芸能記事が出たわけだが、いやいやまさかという気持ちと、これがガセなら芸能記者ポンコツすぎだろうという相反する気持ちを抱えたまま飛行機に乗りこんだ。長い時間をかけて現地に到着すると、翌朝、重大発表的なことがあるというFCメールが届いているとKから報せがあった。もはや翌朝を待たずとも事態は明らかだった。受け止めきれなかったが、私は時差ボケになっていたし時差が16時間もあったし仕事をしなければいけなかった。現地の土曜夜、目一杯働いてホテルの自室に入るともうすべてが終わっていた。FCで発表があり、会見がすんでいた。ネットの記事は漁ったが、いまだに会見の映像は見られていない。そろそろ見ないといけないなと、迫ってくるドーム公演の準備をしながら考えている。

 

大人になってからジャニーズにはまった。それまで、アイドルというよりも、日本のエンタメにまったく興味がなかったからか、はまってから私が一番考えているのは「アイドルとはなにか」という命題だ。アイドルっていったい、なんなのか。彼らは当たり前に日々仕事をして、称賛され叩かれているわけだが、これが本当に、ずっと見ていなかった人間にはなんなのかよくわからないのだ。

私がまともにアイドルを見たのは二宮和也が主演していた『大奥』が最初で、彼がクリント・イーストウッドに抜擢されたことも知らず「二宮和也ってやるじゃんジャニーズなのに」と思ったものだった。はまる前の私にとって、ジャニーズのアイドルというのは、なにがしかのプロフェッショナルではない、というイメージだったのだろう。歌がうまくなくても歌手になれるし、ダンスがうまくなくても踊れるし、演技がうまくなくてもドラマや舞台に出る。もちろん、中にはそれぞれを得意とする人間がいるのだけれど、かといって得意な人間だけがそれをするわけではない。

いまだに、アイドルとはなんなのか考えると、不思議なものに思えて仕方がない。

見ている側よりも、アイドル自身が語る「アイドルとは」という言説のほうが頼りになるような気がして、そういう発言を聞くと記憶するようにしている。たとえば、加藤シゲアキは「アイドルとはアスリートである」と言っている。私がいまのところ最も腑に落ちているのは、横山裕の言った言葉だ。「アイドルはなんでもできる。だから俺は、この事務所やねん」

なんでもできる。確かにそうだ。そしてなにより渋谷とともに関ジャニ∞のメンバーである横山が言っているからこそ、この言葉を裏返したとき、今回の渋谷のふるまいがわかる。渋谷はなんでもできる場所だからこそここを去る。歌手業に専念する、というのはそういう意味なのだろう。

 

アイドルの寿命をこれでもかと引き延ばしたのはSMAPだった。その限界がいまのところ平均して40代前半というところだろうか。子供のころ、知らない間に光GENJIとか忍者とか男闘呼組がなくなっていたのがジャニーズの印象だったから、その時代と比べるとものすごく長生きだ。伸びたのは、たとえば森且行の脱退のときのように、ひとりの脱落でグループを瓦解させないようにしたからだろう。それでも限界はあったということだろう。

アイドルとはなにか。その問いの答えによってその人その人のアイドルとしての寿命も違う。渋谷は35歳からこの先の身の振り方を考えるようになったと言っていた。先にKAT-TUNを抜けた田口は、30歳を自身の節目として辞めていった。あるいは岡田准一櫻井翔も、デビュー当初は30歳になるころには辞めているものだろうと思っていたと話している。アイドルとは青年の仕事であって、おじさんになってからはやるものではない、という思いが、本人たちにもあったのだろう。

その壁を乗り越えていったのがSMAPで、彼らは男性アイドルのロールモデルだった。しかしそれもいまはない。アイドルの限界はまだ伸びるのか、V6あたりを見ながら考えている。もちろん最年長の坂本昌行は、ダンスがめちゃくちゃ切れてるしかっこいい。

 

渋谷すばるの歌が好きだった。いくつものジャニコンに行くが、もともとバンギャだった私にとって、一番心地いいのが関ジャニ∞だった。それを支えているのが渋谷の歌だ。はじめて行ったJUKE BOXではムビステにおののいただけだったが、翌年の関ジャニズムで、終わったあと声を上げて泣いた。汗みたいな涙で、泣き終えてスッキリした。デトックスとでもいうのだろうか。こういうのは私だけなのだろうかと思っていたが、渋谷のソロコンに行って『宇宙に行ったライオン』で泣いていたら、周りからもすすり泣く声がたくさん聞こえてきて、ああす担というものはみんな泣くのだなあと思った。たぶん、渋谷すばるは唯一無二だった。これからのエイトは同じようにはいかない。でもきっと楽しい。私が愛した関ジャニ∞とは違うものだし、私はあんな風に泣くことはもうないかもしれないのだが、それでもやはり、楽しい。

 

味園ユニバース』にかかわるなにがしかは今回の決断に影響しただろうか。そんな単純なものではないかもしれないが、そういう気もしている。

5月、海外出張から帰ってきて私は一人、大阪へ行った。劇中で「サウンドスタジオSATO」だった家や、味園ユニバースなど、映画の撮影地を巡った。もうなくなった場所もいくつかあって、時間の流れを感じた。最後に、物語が始まる浪速公園にタコヤキを片手に足を運んだ。記憶喪失のポチが現れて、いきなり『古い日記』を歌う、あのシーンのロケ地だ。GWの昼下がりで、近所のおっさんたちが何人も、ベンチで裸になって日光浴をしていた。私はステージに座り、エイトの曲を聴きながらタコヤキを食べた。やがて『宇宙に行ったライオン』が流れてくると、声を上げて泣いていた。それはソロコンで聞いたときに流した涙とは決定的に違った。「サーカス団のテントの隅 ライオンが 百獣の王の 檻を壊した/調教師、ピエロから逃げ ライオンは 世界を見たいと 草原を走り出した」そう渋谷が歌い、メンバーが「遠くへ遠くへ」とコーラスする。離れることを選んだ渋谷を後押しして会見に並んだメンバーたちの姿と重なった。

味園ユニバース』のプロモーションで、渋谷が炎上したことを覚えている人もいるだろう。そもそも一人で映画に出ることが決まり自担に対して一番心配していたのは、村上信五横山裕がいない場所でまともにしゃべれるのか、ということだった。案の定派手なプロモーションは少なく、公開日当日、ズムサタに二階堂ふみと出るのが唯一といってもいいくらいだった。その生放送中、渋谷は緊張しており、不愛想だった。生放送で見ながら、やっぱりヒナとヨコが必要だよ、と思っていたが、最後の最後に、渋谷は「がおー!」とリアクションをして、その渋谷らしさに「すばるくんがんばった!」と私はほっとした。ところがいつもの渋谷を知らない人たちにとっては格好のネタだった。「アイドルのくせに不愛想なんて許せん」と渋谷は炎上した。普段、笑顔を浮かべるアイドルを「へらへらして顔だけ」と非難する人たちがこぞって、彼らの思うアイドルらしいそぶりを見せなかった渋谷を攻撃したのだ。アイドルなら不特定多数の皆様に媚を売れと平気で言う人間たちのために、渋谷すばる渋谷すばるらしくいられないことが心の底から腹立たしかった。あまりにも理不尽だったが、渋谷は謝罪文を出し、その後の映画のイベントでは「笑顔」を見せた。ビリケンの置物のような笑顔で、彼を非難した人たちに慇懃無礼を尽くしたようだった。

渋谷にとって『味園ユニバース』がきっかけになったとしても、作品を通した歌とのむきあいかたより、あの炎上だったのかもしれないと思ったりもする。つまりアイドルとはなにか、という疑問が、あの炎上で渋谷にとって無視できないものになったのではないかと。

味園ユニバース』を見て、渋谷すばるは事務所がとても大切にしているタレントなのだと思った。企画は渋谷の歌を生かし、役の素性はムショ出のチンピラという、ジャニーズらしくないものだったが、その甘さの欠落した役柄は渋谷に合っていた。海外で映画賞を取って、国内でもいくつもの新人賞に名前を挙げられるほど成功し、他のアイドルからしたらうらやましいくらいの企画だった。その映画が、渋谷の決断に繋がったかと思うと皮肉ではある。

 

これから私にとって関ジャニ∞はどんなものになるのか、まだGR8ESTに入っていないからわからない。メンバーが散らばったとき、遠くの自担より近くのメンバーを見るというポリシーではあるが、まったく自担がいないコンサートで自分がなにを見るのか、まだイメージがわかない。だれかの担当になるのか、箱推しだけになるのか、はたまたエイトコンに足を運ばなくなるのか、そういうのもよくわからない。

でもいつだって、関ジャニ∞のコンサートは楽しかったことを私は知っている。

 

渋谷すばるというアイドルをきちんと認識した最初の記憶は、2012年末のカウントダウンコンサートだ。事前収録のVTRの中で、渋谷はカメラから敢えて視線を外して、村上のしゃべりにうなずいていた。わたしはその姿を渋谷らしいと、そう記憶に残している。そしてその渋谷らしさの行く末が、今日の彼らの姿だ。

『ジュリエット通り』を見て

『ジュリエット通り』 2014年10月12日13:00開演 於シアターコクーン
 作演 岩松了 主演 安田章大大政絢


※数年前の舞台感想をおいておきます

 ジャニーズが出ている舞台は初見と言ってもいい。はるか昔に佐藤アツヒロの『犬夜叉』を見たが、ジャニーズにはまってからははじめてだ。とはいえそもそも、いわゆるグローブ座で展開される〈ジャニ舞台〉と世間から色目で呼ばれるラインナップではないのだろう。コクーンらしい濃厚なストレートプレイである。登場人物たちが自分の頭の中身をぶちまけるような話劇が圧巻だ。しかし各人の言葉はあくまでも話者の主観からの言葉であって、なにが真実なのかは劇中でははたして明らかにならない。当然話者は嘘をつくし、また推測するし、あるいは妄想するからだ。

 さて、公式サイトにあらすじは載っているが、ここは敢えて物語を追っていこうと思う。舞台のふれこみは「現代版ロミオとジュリエット」である。ロミオ=田崎太一は大学を卒業したものの、仕事にもつかずぶらぶらとしているだけの青年である。父親の口利きで就職の面接には行くが、自分で台無しにしてしまい、「親が残した金でのうのうと暮らしている親父が嫌いだ」と言いながら、本人もまた、同じように親の金に甘えた状況にいる。
 この田崎の家は「ジュリエット通り」と呼ばれる場所にあり、むかいには〈枯淡館〉という娼館が建っていた。このあたりの地主が田崎で、枯淡館も田崎の土地に立っている。太一の父親・田崎昭一郎は、枯淡館の客ではあるがオーナーのような立場でもあって、さらには彼のいまの妻は、以前枯淡館で働いていたスズであり、田崎家は枯淡館と切っても切れない関係にあった。
 ミリタリーウェアに身を包み徒党を組む青年たち、通りになぜか充満している消毒薬の匂い、と、どうにも陰気な展開を予想させるモチーフが随所に登場してくる。議員の上田、八重島といった有力者を客に持つ枯淡館はあぶなげないはずだったが、とつぜん風営法違反だと役所から指摘され、経営の危機も迫る。こうして、物語はなにもかもが没落へと傾いているのが見てとれるのだ。
 さて、物語の軸となるのは過去にあった一つの事件である。枯淡館の若い娼婦・スイレンが、店の金庫から金を盗んだ。スイレンには病弱な夫がいて、お金が必要だったのだという。盗んだ金は、昭一郎が補填していた。スイレンは田崎に恩を返すため、居づらいながらも枯淡館で働き続ける。
 しかし、昭一郎の愛人でもあるスイレンは、屋敷で会った太一に「盗んでいない」と言う。原作『ロミオとジュリエット』を顧みるのであれば、このスイレンがジュリエットにあたる。ロミオ=太一との叶わぬ恋に身を焦がすはずのジュリエットは、しかし、作中で最も奇怪な存在である。金は盗んでいない。そもそも彼女は夫がいたこともないという。では、スイレンの立場を悪くさせている「金を盗んだ」という事件は、いったいなんなのか。
 スイレンは終始否定形で語られる。金は盗んでいない(あるいは、金は必要ではない)。夫はいない。枯淡館の娼婦であるが、別の娼館との合併話が来たとき、スイレンは実は昭一郎の愛人だから、と断る。一見彼女が「昭一郎の愛人である」と説明しているように見えるが、しかし、いつどうやって彼女が昭一郎の愛人となったのかは説明されず、ではスイレンが何者なのか、ということはわからないままだ。つまり「スイレンは、娼婦ではない」ことを語るためにスイレンは昭一郎の愛人だと説明しているのである。スイレンという名前も、源氏名である。スイレンは自分自身で、自分の中にはなにもない、だから決めてほしいと口にする。見ていて、記憶喪失なのではないかと疑うほど、彼女には定義がない。彼女は物語の核心にいながら、存在感がなく、生気すらない。
 太一は父の後妻であるスズとそれなりにうまくやっている。そして、昭一郎の愛人であるスイレンとも、それなりにうまくやっている。彼女らと話をしながら、太一は父親への鬱屈した感情とむきあうのである。
 さて、田崎家の物語とは別に、枯淡館の没落はいよいよ迫ってくる。後ろ盾になってくれるはずだった八重島が逮捕され、別の娼館との合併を余儀なくされる。これは結局、田崎の土地にあるものすべてを奪うための上田議員の策略であった。娼婦の中にも上田に加担した女がいたし、右翼風のミリタリー青年たちもまた、上田の手伝いをしていたのだった。
 昭一郎が逮捕される前にと身の周りを整理しているその中、田崎家ではいつわりの晩餐が開かれる。昭一郎、その愛人スイレン、後妻スズ、そして前妻の子太一、といういびつな家族もどきで食べるのは、素朴なカレーである。しかしこのシーンが奇妙なのは、食卓にはカレーが並ばないところだ。四人は昭一郎のごっこ遊びにつきあい、なにもない食卓でカレーを食べる(振りをする)。田崎家の最後の晩餐である。この後、スズは家を出てゆき、昭一郎は昭一郎で、スイレンを連れて別荘にゆく予定になっていた。
 閉鎖する枯淡館、そして離散する田崎家。出てゆくスズと会話した太一は、昭一郎はスイレンと無理心中をはかるために別荘にゆくのではないかという妄想に取りつかれる。太一は家に飛び帰るが、明け方出発するはずの昭一郎の姿はすでにない。そして枯淡館のバルコニーには、ドレスを着たスイレンの姿があった。枯淡館には鍵がかけられていて、太一は壁をよじ登ってスイレンの隣に立つ。スイレンは札束を手にして「盗んだ金を返す」と口にするが、観客も太一もこの時点で、本当に金を盗んだのはスズで、スイレンはその濡れ衣を着せられていることを知っている。ではスイレンはなんのための金を持っているのか。そして、その金はどこから現れたのか。スイレンは昭一郎とともに出発するはずではなかったのか。本当にスイレンはそこにいるのか。言い争ううちに二人の手から札束がこぼれ、地面に舞う。太一はバルコニーを降り、金を掻き集めようとするが、見あげるともうスイレンは消えているのだった。

 これは悲劇だろうか、あるいは、これは悲恋の物語だろうか。
 物語の中には、スイレン=ジュリエットと太一=ロミオの恋は存在していない。公式サイトのあらすじを見てもらえばわかるが、この『ジュリエット通り』は若い恋人たちの物語というそもそもの形式をどこかの時点で放擲してしまっている。これはたったひとり、ロミオの物語である。物語から恋が消失した結果、その恋の象徴たるジュリエット=スイレンは、前に述べたとおり、だれでもない者にならざるを得ない。かりそめに与えられていた「田崎昭一郎のめかけ・スイレン」という立場も、スイレンは金を返すことで返上しようとし、否定形でしか語られないスイレンは、何者でもなくなる。そしてこの文脈に沿えば、「スイレンはジュリエットではない」のである。
 最後の場面で、バルコニーに立つスイレンはもはやこの世のものとは思えない。太一は彼女が哀れになってとうとう「この金で君を買う」と言うが、それは恋情からではなく、太一自身は劇中で一度もスイレンの肉体を求めていない。太一が触れたスイレンの手は冷たく、彼女の姿は消えてしまう。太一が直観したようにバルコニーのスイレンはすでに昭一郎との心中を果たした亡霊なのか、すべてが太一の妄想だったのかも、わからない。

 劇中で語られる二つの物語が、失われたラブ・ストーリーとしての『ジュリエット通り』の片鱗を残している。一つは過去にあったことだと語られる枯淡館の娼婦についての逸話で、客に恋をした娼婦が男に金を渡し、自分を買ってもらうというものだ。枯淡館のむかいに田崎邸がまだ建っておらず、工場があった頃の話だという。太一はこの物語にひどく固執し、おそらく当時を知っているだろう年配の娼婦にまで掴みかかって話を聞こうとする。
 もうひとつは劇中でも創作の物語で、枯淡館の客である八重島主催のクルーズパーティで上演しよう、とスズが持ちこむ台本である。王様のめかけと小姓が禁じられた恋をして、挙句、王によって小姓の一物が切り落とされる、というなんとも言えないスプラッタな物語だ。めかけと小姓には、王様が気にいっているという証の歯形が腕に刻まれており、その証が却って二人を惹きつけ、王様を裏切るという筋立てである。この歯型というのはスイレンが昭一郎に刻まれている傷でもあって、スズのシナリオは現実とリンクしており、そしてそれ以上に、『ジュリエット通り』の原ストーリーにリンクしているように見える。原ストーリーではスイレンと太一を恋人同士に仕立て上げたのが昭一郎であるように読めるが、本舞台でスイレンに窃盗の罪をかぶせたのがスズであるように、原ストーリーでも黒幕はスズだったのかもしれない。スズがスイレンの腕に刻まれた歯形を知っている描写は劇中にない。しかしスズにも歯形が刻まれているから、当然のようにスイレンにも刻まれているに違いないと思ってもおかしくないし、だから息子の太一にはない歯形も、あると思ったのかもしれない。
 スイレンは存在が奇妙なヒロインだが、スズは行動が奇妙なヒロインである。スイレンに濡れ衣を着せた行動は一見夫の愛人に対する嫉妬に見えるが、後半、上田の息のかかった娼婦サクラが支配力を発揮する空き地にも現われることを思うと、彼女も上田に同調していた可能性は高い。その原動力はもちろん嫉妬だろうが、彼女の気持ちはスイレンに対してむかったのではなく、昭一郎にむかったものだ。
 こう見てくると舞台の主軸は昭一郎であって、太一はそんな不安定な環境の中でハムレットよろしく「生きるべきか死ぬべきか」と懊悩しているにすぎず、物語の大きなうねりに一切関係していない。しかしその太一の懊悩があるからこそ、登場人物たちの、はっきりと言えば昭一郎の真意というものが暴かれてゆく。太一はもうひとりの昭一郎だ。スズをスイレンと並んでヒロインと呼ぶのは、結局のところ昭一郎と太一の存在的区別というのがあやふやだからで、それはオープニングとエンディングに現われている。
 冒頭、帰宅した昭一郎は「道端で虫を見ている子供を見たが、少し目を離した隙に消えてしまった」と言う。エンディングではバルコニーからまき散らされた札束を、太一が掻き集めるでもなくはいつくばって「アリがいる」と言い、その傍らを、怪訝な顔をした昭一郎が通り過ぎるという、ループ構造になっているのである。作演の岩松によればモンタギュー家とキャピュレット家のあいだの対立を、家庭と娼館という俗と性との対立構造に変えたものであるという。であるならば、ジュリエットのバルコニーを覗くロミオは、自宅と枯淡館を行き来する昭一郎以外にあり得ない。別荘でスイレンとともに心中するのも、だから昭一郎なのだ。
 劇中には大きく男と女の対立というものも散見され、買われていいように利用される娼婦たちに対して、「そうさせられている」と昭一郎も上田も口にするのである。『ジュリエット通り』が恋愛を描いたものであるとすればそれはロミオとジュリエットのあいだだけに芽生えた恋愛の物語ではない。ありとあらゆる男と女のあいだに生じうる、もっと抽象的な恋愛の物語である。そして『ロミオとジュリエット』が悲恋の物語であるというのであれば、ありとあらゆる恋愛は悲劇なのである。
 太一は昭一郎から失われた青春そのものである。悩まぬ昭一郎のかわりに太一は苦しみ、スイレンを理解しようとし、そして助け出そうとする。彼はスイレンを愛していない。だがこれは恋愛の物語である。太一は自分しか愛していないが、若かりし恋というのはいつだって自己愛の延長のようなものだろう。

 

 劇中の見せ場といえば、太一がバルコニーに登ってゆく姿だろう。『ロミオとジュリエット』においてバルコニーでの秘密の逢瀬は一番の名シーンだろうが、『ジュリエット通り』クライマックスでようやく登場したこの場面で、太一はすさまじい勢いとともに、自らの腕力だけでよじ登ってゆく。思い返せば、いままで見た『ロミオとジュリエット』ではロミオはするするとバルコニーに到達して、息も切らしていなかった。枯淡館の鍵が閉まっていたため、太一は仕方なく壁を登るのだが、バルコニーまでの数メートルを、太一はほとんど腕の力だけでよじ登ってゆく。安田が筋肉を誇るタイプであったのは承知していたが、シャツ越しにも筋肉の緊張が見えてくるような必死さが、のらりくらりと日々を過ごしていた太一の変化をまざまざと見せる。会場中が唐突なその荒々しいさまに目を奪われているうちに、太一は息を切らしながらもあっというまにバルコニーに辿りついていた。太一の抱える熱量と、スイレンの手の冷たさは、対照的だ。
 セリフで空間を埋めるような会話劇の中で、太一の鬱屈したキャラクターにはアイドルらしさ、というよりも安田らしさはあまり見られない。ただこのよじ登るシーンでのみ、シャツの下に隠されていた太一の生々しい肉体を、観客は発見する。もちろんそのために鍛え上げたわけではなく、わたしなども「ああ、この青年は安田章大だったのだ」と思い出したのだが、決して仮面がはがれおちたわけではない。そこで爆発するエネルギーは実に若者らしく、しかし燃え尽きた太一が退行するほどの勢いだ。本家『ロミオとジュリエット』でも見せ場であるこのバルコニーを、まったく異質ながらも『ジュリエット通り』も見事な見せ場としたように思う。