アイスキャンディ・マイラブ

札幌ドーム前に住んでるパンダの雑記

渋谷すばるのこと

もうすぐ渋谷すばるが最後に出演した関ジャムから二か月が経つ。ようやく、私も東京二日目でGR8ESTに入ることとなる。そこで目にするのは、6人の関ジャニ∞だ。入る前に、す担として気持ちをまとめておきたくて、書いておく。

 

はじめて関ジャニ∞を見たのは忘れもしない2013年12月15日、私の生まれてはじめての「ジャニコン」だった。映画のエイトレンジャーは見に行く、くらいの距離感であった私を誘ってくれたのはエイトにはまったばかりの友人のKで、札幌のチケットが取れたと言われてホイホイと同行した。前乗りしようとした飛行機は大雪で数時間遅れ、20時には札幌で夕飯を食べているはずだった私たちは、23時にコンビニで買ったホッケの魚肉ソーセージをかかえようやくホテルについた。翌朝、マイナス3度の中を1時間並んでグッズを買った。Kはなんとビギナーズラックでアリーナ席を当てていたので、アリーナ席なら礼儀としてうちわくらい持たねばと、その日私が買ったのは全員のクリアファイル、ペンライト、そして渋谷すばるのうちわだった。

入ってみると、Kが当てたアリーナ席というのはバクステ間近、そしてムビステの真下だった。メンステまでは非常に遠いが、しかしその日、ムビステが動き出したときに鳥肌が立った感覚は忘れられない。こっちにくる、しかも全然歩いてないのにこっちにくる。やがて我々の真上をエイトが通過していった。わたしは口を開けたまま、ムビステと一緒に身体をのけぞらせた。そのとき真下をのぞきこんだ渋谷は、うちわをかかえ、驚愕した表情の私(達周辺の観客)を眺めながら挑発的にべろりと舌で唇を舐めた。「アーーーーーーーーーー!」という言葉にならない叫びが私の唇からこぼれ、隣のKにしがみついた。Kも悲鳴を上げていた。バクステ近くだったのがよかったのだろう、ムビステの高度は低く、至近距離から見上げて「アイドルが履くズボンも股間に縫い目がある…」と思った。その衝撃はすさまじいものだった。その一回のコンサートで渋谷すばるに落ちた。恵まれた席だったので規制退場で退出したのは最後の最後だったが、まわりの席の人たちもみんな「仕方ないわよね~いい思いしたもん」とばかりににこにこしていた。福住の駅に入るのに雪の中一時間以上並んだが、少しも苦痛に思わなかった。あの日のあの席で見た景色を、いまも鮮明に覚えている。Kと鳥貴族で飲んでは、斜め上を指さして「あそこに…」と思い出を語り合った。

 

今年の4月、私は出張で二週間海外に輸出されていた。出発直前、すっぱ抜きの芸能記事が出たわけだが、いやいやまさかという気持ちと、これがガセなら芸能記者ポンコツすぎだろうという相反する気持ちを抱えたまま飛行機に乗りこんだ。長い時間をかけて現地に到着すると、翌朝、重大発表的なことがあるというFCメールが届いているとKから報せがあった。もはや翌朝を待たずとも事態は明らかだった。受け止めきれなかったが、私は時差ボケになっていたし時差が16時間もあったし仕事をしなければいけなかった。現地の土曜夜、目一杯働いてホテルの自室に入るともうすべてが終わっていた。FCで発表があり、会見がすんでいた。ネットの記事は漁ったが、いまだに会見の映像は見られていない。そろそろ見ないといけないなと、迫ってくるドーム公演の準備をしながら考えている。

 

大人になってからジャニーズにはまった。それまで、アイドルというよりも、日本のエンタメにまったく興味がなかったからか、はまってから私が一番考えているのは「アイドルとはなにか」という命題だ。アイドルっていったい、なんなのか。彼らは当たり前に日々仕事をして、称賛され叩かれているわけだが、これが本当に、ずっと見ていなかった人間にはなんなのかよくわからないのだ。

私がまともにアイドルを見たのは二宮和也が主演していた『大奥』が最初で、彼がクリント・イーストウッドに抜擢されたことも知らず「二宮和也ってやるじゃんジャニーズなのに」と思ったものだった。はまる前の私にとって、ジャニーズのアイドルというのは、なにがしかのプロフェッショナルではない、というイメージだったのだろう。歌がうまくなくても歌手になれるし、ダンスがうまくなくても踊れるし、演技がうまくなくてもドラマや舞台に出る。もちろん、中にはそれぞれを得意とする人間がいるのだけれど、かといって得意な人間だけがそれをするわけではない。

いまだに、アイドルとはなんなのか考えると、不思議なものに思えて仕方がない。

見ている側よりも、アイドル自身が語る「アイドルとは」という言説のほうが頼りになるような気がして、そういう発言を聞くと記憶するようにしている。たとえば、加藤シゲアキは「アイドルとはアスリートである」と言っている。私がいまのところ最も腑に落ちているのは、横山裕の言った言葉だ。「アイドルはなんでもできる。だから俺は、この事務所やねん」

なんでもできる。確かにそうだ。そしてなにより渋谷とともに関ジャニ∞のメンバーである横山が言っているからこそ、この言葉を裏返したとき、今回の渋谷のふるまいがわかる。渋谷はなんでもできる場所だからこそここを去る。歌手業に専念する、というのはそういう意味なのだろう。

 

アイドルの寿命をこれでもかと引き延ばしたのはSMAPだった。その限界がいまのところ平均して40代前半というところだろうか。子供のころ、知らない間に光GENJIとか忍者とか男闘呼組がなくなっていたのがジャニーズの印象だったから、その時代と比べるとものすごく長生きだ。伸びたのは、たとえば森且行の脱退のときのように、ひとりの脱落でグループを瓦解させないようにしたからだろう。それでも限界はあったということだろう。

アイドルとはなにか。その問いの答えによってその人その人のアイドルとしての寿命も違う。渋谷は35歳からこの先の身の振り方を考えるようになったと言っていた。先にKAT-TUNを抜けた田口は、30歳を自身の節目として辞めていった。あるいは岡田准一櫻井翔も、デビュー当初は30歳になるころには辞めているものだろうと思っていたと話している。アイドルとは青年の仕事であって、おじさんになってからはやるものではない、という思いが、本人たちにもあったのだろう。

その壁を乗り越えていったのがSMAPで、彼らは男性アイドルのロールモデルだった。しかしそれもいまはない。アイドルの限界はまだ伸びるのか、V6あたりを見ながら考えている。もちろん最年長の坂本昌行は、ダンスがめちゃくちゃ切れてるしかっこいい。

 

渋谷すばるの歌が好きだった。いくつものジャニコンに行くが、もともとバンギャだった私にとって、一番心地いいのが関ジャニ∞だった。それを支えているのが渋谷の歌だ。はじめて行ったJUKE BOXではムビステにおののいただけだったが、翌年の関ジャニズムで、終わったあと声を上げて泣いた。汗みたいな涙で、泣き終えてスッキリした。デトックスとでもいうのだろうか。こういうのは私だけなのだろうかと思っていたが、渋谷のソロコンに行って『宇宙に行ったライオン』で泣いていたら、周りからもすすり泣く声がたくさん聞こえてきて、ああす担というものはみんな泣くのだなあと思った。たぶん、渋谷すばるは唯一無二だった。これからのエイトは同じようにはいかない。でもきっと楽しい。私が愛した関ジャニ∞とは違うものだし、私はあんな風に泣くことはもうないかもしれないのだが、それでもやはり、楽しい。

 

味園ユニバース』にかかわるなにがしかは今回の決断に影響しただろうか。そんな単純なものではないかもしれないが、そういう気もしている。

5月、海外出張から帰ってきて私は一人、大阪へ行った。劇中で「サウンドスタジオSATO」だった家や、味園ユニバースなど、映画の撮影地を巡った。もうなくなった場所もいくつかあって、時間の流れを感じた。最後に、物語が始まる浪速公園にタコヤキを片手に足を運んだ。記憶喪失のポチが現れて、いきなり『古い日記』を歌う、あのシーンのロケ地だ。GWの昼下がりで、近所のおっさんたちが何人も、ベンチで裸になって日光浴をしていた。私はステージに座り、エイトの曲を聴きながらタコヤキを食べた。やがて『宇宙に行ったライオン』が流れてくると、声を上げて泣いていた。それはソロコンで聞いたときに流した涙とは決定的に違った。「サーカス団のテントの隅 ライオンが 百獣の王の 檻を壊した/調教師、ピエロから逃げ ライオンは 世界を見たいと 草原を走り出した」そう渋谷が歌い、メンバーが「遠くへ遠くへ」とコーラスする。離れることを選んだ渋谷を後押しして会見に並んだメンバーたちの姿と重なった。

味園ユニバース』のプロモーションで、渋谷が炎上したことを覚えている人もいるだろう。そもそも一人で映画に出ることが決まり自担に対して一番心配していたのは、村上信五横山裕がいない場所でまともにしゃべれるのか、ということだった。案の定派手なプロモーションは少なく、公開日当日、ズムサタに二階堂ふみと出るのが唯一といってもいいくらいだった。その生放送中、渋谷は緊張しており、不愛想だった。生放送で見ながら、やっぱりヒナとヨコが必要だよ、と思っていたが、最後の最後に、渋谷は「がおー!」とリアクションをして、その渋谷らしさに「すばるくんがんばった!」と私はほっとした。ところがいつもの渋谷を知らない人たちにとっては格好のネタだった。「アイドルのくせに不愛想なんて許せん」と渋谷は炎上した。普段、笑顔を浮かべるアイドルを「へらへらして顔だけ」と非難する人たちがこぞって、彼らの思うアイドルらしいそぶりを見せなかった渋谷を攻撃したのだ。アイドルなら不特定多数の皆様に媚を売れと平気で言う人間たちのために、渋谷すばる渋谷すばるらしくいられないことが心の底から腹立たしかった。あまりにも理不尽だったが、渋谷は謝罪文を出し、その後の映画のイベントでは「笑顔」を見せた。ビリケンの置物のような笑顔で、彼を非難した人たちに慇懃無礼を尽くしたようだった。

渋谷にとって『味園ユニバース』がきっかけになったとしても、作品を通した歌とのむきあいかたより、あの炎上だったのかもしれないと思ったりもする。つまりアイドルとはなにか、という疑問が、あの炎上で渋谷にとって無視できないものになったのではないかと。

味園ユニバース』を見て、渋谷すばるは事務所がとても大切にしているタレントなのだと思った。企画は渋谷の歌を生かし、役の素性はムショ出のチンピラという、ジャニーズらしくないものだったが、その甘さの欠落した役柄は渋谷に合っていた。海外で映画賞を取って、国内でもいくつもの新人賞に名前を挙げられるほど成功し、他のアイドルからしたらうらやましいくらいの企画だった。その映画が、渋谷の決断に繋がったかと思うと皮肉ではある。

 

これから私にとって関ジャニ∞はどんなものになるのか、まだGR8ESTに入っていないからわからない。メンバーが散らばったとき、遠くの自担より近くのメンバーを見るというポリシーではあるが、まったく自担がいないコンサートで自分がなにを見るのか、まだイメージがわかない。だれかの担当になるのか、箱推しだけになるのか、はたまたエイトコンに足を運ばなくなるのか、そういうのもよくわからない。

でもいつだって、関ジャニ∞のコンサートは楽しかったことを私は知っている。

 

渋谷すばるというアイドルをきちんと認識した最初の記憶は、2012年末のカウントダウンコンサートだ。事前収録のVTRの中で、渋谷はカメラから敢えて視線を外して、村上のしゃべりにうなずいていた。わたしはその姿を渋谷らしいと、そう記憶に残している。そしてその渋谷らしさの行く末が、今日の彼らの姿だ。